アイザック・アシモフ「われはロボット」☆☆

われはロボット

ロボットテーマSFの名作・古典であり、ロボット工学の三原則を明確に定めて、ロボット・人造人間をフランケンシュタインの怪物から、より人間にとって身近なものにした記念すべき傑作短編集です。

1950年代に発表されたSFですけど、今読んでも古さを感じさせない。

1950年というと管理人が生まれる前ですが、それでいて古臭くないというのは、アシモフのセンスもありますけど、ロボットの描写が意外と抽象的ということもあるように思います。陽電子頭脳とか言っても何やらよく分かりませんしね。

頭でっかちの子どもみたいですし、言葉が話せるペットという風にも思える一群のロボットたちですが、管理人がこの短編集で気に入ったのは「ロビィ」と「うそつき」です。

「ロビィ」はどこか郷愁を感じさせる作品で、手塚治虫の「鉄腕アトム」にイワンの馬鹿という話がありましたが、それを連想してしまいました。

人間を救うため自分の危険を顧みずに助けに走り出すロボットというのは、それがそういう風にプログラミングされた機械に過ぎないとしても感動してしまいます。

「うそつき」には別な意味で感銘を受けました。

人間の心を読むことの出来るロボットは、人間の心を傷つけまいと嘘をつきますが、その嘘によって人間は更に傷つく。

この短編集を通しての主人公のスーザン・キャルヴィン博士は、そういうロボットに対してジレンマを与え破壊してしまう。

無垢で善意の塊のようなロボットに比較するような残酷な人間の性のようなモノを感じます。

勿論、アシモフの目は醒めているのですが、こういう作品を読むと欧米人と日本人のロボットに対する感覚の違いを感じてしまいます。

管理人などは、思考し、自らの意思で行動し、人間と会話するロボットという存在に対して、どうしても擬人化してしまいますけど、どうも向こうの人はどんなに人間に似せていても所詮はただの機械人形に過ぎないと受け止めているみたい。

管理人は、当然のようにロボットを破壊するキャルヴィン博士の行動を受け止められずに、何となく一種の殺人のようなものという捉え方をしてしまいます。


しかし本当にいつの日か、こういうすぐれたロボットが町中を歩く日が来るのだろうか、自動車を買うようにロボットを買うことが出来る日が来るのかしら。

おもちゃに毛の生えたようなモノはいざしらず、ここまでスゴイ性能のロボットが手に入る時代は、管理人が生きている間はムリでしょうけど、でもそんな時代が来たら素敵でしょうね。


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